iPS細胞(人工多能性幹細胞)を開発した京都大の山中伸弥(やまなかのぶや)教授(50)が
2012年のノーベル医学・生理学賞を授与されたことが、テレビやインターネットで大きく報道されています。
私は医学には明るくないので、研究関係についてはあまり深く書けませんが、
山中伸弥教授のご家族のこと、結婚した奥様のこと、友達やこれまでの経験などについて知りたいと思い、
調べてみました。
まずは山中伸弥教授の経歴から紹介します。
お父様は、ミシンを作る町工場の経営者だそうですが、
自分の息子(山中伸弥教授)は商売人向きの性格ではないと見抜いて、別の道を歩むように進めたそうです。
奥様とは中学・高校が同じで、高校二年生のときから付き合いはじめ、20歳くらいで結婚しています。
そんな高校時代に、進路をどうしようかと悩んでいたとき、一冊の本を読んだのがきっかけで医学を目指すことになります。
その本は徳田虎雄(徳洲会理事長)氏の著書、「生命だけは平等だ。」でした。
本の中に書かれている思想に感銘を受けて、医学の道へ進むことを決心したそうです。
今回、晴れてノーベル生理学賞を受賞した、山本伸弥教授ですが、
それまでには幾度かのうつ病も経験しました。
一度目は、神戸大学の卒業後、整形外科医の目指し、研修を受けていた頃です。(ちなみに整形外科医を選んだ理由は、中学、高校で柔道に打ち込み、足の指や鼻などを10回以上骨折した経験から。)
研修医時代に直面したのは、治すことができない数多くの患者がいるという現実でした。
最初に担当した慢性関節リウマチの女性は、みるみる症状が悪化していきました。
他にも、医療で治すどころか、むしろ悪化していってしまう患者さんがいる現実を目の当たりにした経験などが、
山中伸弥教授の心の中の「やる気」や「志」を失わせ、挫折感を味わい、
いつしか、それが積み重なって、うつ病となってしまったのです。
そして二度目は研究の道に進んでからの最初の頃。
医療の現場では、患者さんを治すことができないなら、
患者さんを治せる「基礎研究の道へ進もう」と、
アメリカに留学しました。帰国後、再び苦しい時が訪れたのです。
研究だけに没頭できる米国の環境との落差が山中伸弥教授を苦しめたのです。
日本での現実は「実験用のマウスの世話ばかり。」
完全にやる気を失い、うつ病が再発しました。
それでも家族や、交流を続けた難病患者の支えにより、うつ病を克服し、
今回の偉業を成し遂げました。
ちなみに、これは余談ですが、
奥様とは中学・高校時代が一緒だったそうですが、
いまだに、山中伸弥教授は中学・高校時代の友達を大事にしていて、
頻繁に食事に行ったり、飲みに行ったりと交流を持ち続けているそうです。
高校時代の友達がインタビューに答えていましたが、
山中伸弥教授は「お酒はけっこう強い方で、飲むととても明るく饒舌になる。」とのことでした。
50歳になっても、中学・高校時代の友達を大事にしているって素晴らしいことだと思います。
周りの人たちを大切にする教授の人柄があったからこそ、うつ病を乗り越え、
今回のiPS細胞の研究が成功し、ノーベル賞を受賞することができたのでしょうね。
ちなみに、山中伸弥時代が、iPS細胞の開発を始めたきっかけは、
娘さんの存在だったそうですよ。
ある日、顕微鏡で受精卵を観察したときのこと。
「生まれた娘の顔と、受精卵の姿が重なった。この受精卵もかわいい子供に育つはず。
何とか壊さないで済む方法はないのか・・・」
そこから研究を進めて行ったそうです。
そして研究成果を発表することとなった際、
当時流行していた米アップル社の携帯音楽プレーヤー「iPod」(アイポッド)にあやかり、
「iPS細胞」と命名したとのことです。
これを機に益々の医学の発展により、一人でも多くの患者さんが救われることを願っています。